大磯の著名人別荘地の名残を訪ねて

大隈邸座敷から庭を望む エッセイ

大磯町郷土資料館で面白いものを見つけました。「大磯に別荘を構えた人々」というもので、大磯町の古地図に、別荘を構えた著名人の名前肖像写真を、それぞれの別荘があった場所に貼付している絵地図です。絵地図の真ん中が大磯駅照ヶ崎海岸で、その左右に東西に広がる別荘群が示されています。西のはずれは「吉田茂邸」「三井高棟邸」で、そこから大磯駅方面に向かって「伊藤博文邸」「西園寺公望邸」「大隈重信邸」「陸奥宗光邸」があります。真ん中の大磯駅の写真の付近に「岩崎弥之助邸」があり、東には「安田善次郎邸」「後藤象二郎邸」、少し離れて「浅野総一郎邸」があります。こうしてみると、大磯駅周辺の中心部と、西側方面に多くの別荘があったことがわかります。

絵地図 大磯に別荘を構えた人々
大磯町郷土資料館
絵地図 大磯に別荘を構えた人々 出典:大磯町郷土資料館

大磯町郷土資料館HP

吉田茂邸、三井高棟邸

吉田茂邸と三井高棟邸は、「県立大磯城山公園」として一体整備されています。国道を挟んだ南側の部分は「旧吉田茂邸地区」で、9,000坪の敷地は吉田茂が存命していた頃の景観が再現されています。1947年(昭和22年)に建てられた本館は、賓客をもてなす迎賓館にするため1961年(昭和36年)に増改築が行われ「吉田御殿」として数々の政治の舞台となりました。しかし近年になり2009年(平成21年)の火災で、母屋のほとんどを焼失してしまいます。神奈川県と大磯町が速やかに再建工事に着手し、2016年(平成28年)には工事を完了し、ほぼ焼失前の状態に復元されています。本館の内部の見学は有料で500円ですが、庭園無料で自由に見学が出来ます。庭園にはバラ園心字池石塔兜門七賢堂などがあり、思ったよりも奥深く広がっていますので散策には時間の余裕が必要です。

国道の北側城山部分は「旧三井別邸地区」で、38,000坪の広大な敷地に「本館」のほか「茶室」や作陶のための「窯場」など多くの施設が造られ、庭園も整備されていました。本館は城山の見晴らしの良い山頂付近に建てられ、さらに建物中央部に4階建ての望楼を持つ眺望に優れた建物でした。最上階からは眼下に相模湾を一望でき、遠くに伊豆箱根の山々、富士山を望むことが出来ます。現在は多くの建物が失われたり移築されていますが、庭園はその痕跡を残しつつ公園として整備されており、また敷地内には「本館」の建築様式を模した「大磯町郷土資料館」があり、当地の歴史を今に伝えています。

旧吉田茂邸 日本庭園 心字池
県立大磯城山公園
旧吉田茂邸 日本庭園 (県立大磯城山公園)

伊藤博文邸、西園寺公望・池田成彬邸

伊藤博文は初代内閣総理大臣であり、その後も4度ほど内閣総理大臣を務めますが、初代韓国統監ともなった人物です。第二次伊藤内閣の総理在任中の1895年(明治29年)に小田原にあった別荘「滄浪閣」を引き払い、大磯の土地5,500坪に新たな別荘「滄浪閣」を建てます。翌年には本籍地を大磯に移しましたので、以降は別荘ではなく「本邸」の扱いとなりました。大磯駅から「滄浪閣」までの道は、伊藤ら別荘所有者による寄付で造られたもので、伊藤が初代韓国統監であったことに因んで「統監道」と呼ばれています。「滄浪閣」は伊藤の死後、大韓帝国最後の王家李氏に譲渡されました。

西園寺公望伊藤博文腹心で、1899年(明治32年)の2月に伊藤の「滄浪閣」に宿泊し、伊藤に誘われるまま大磯に別荘を造ることとし、その年の11月には隣地4,400坪に「隣荘」を完成させます。当時は伊藤が総理大臣を歴任している頃ですし、その後は西園寺公望が立憲政友会の総裁を継いで、1906年(明治39年)に総理大臣となります。「滄浪閣」と「隣荘」は、伊藤と西園寺がそれぞれ現役総理大臣の際に利用していた居宅ですので、当時の大磯の評価がいかに高く人気の土地であったことが伺い知れます。西園寺は伊藤が凶弾に倒れた後、1917年(大正6年)に「隣荘」を当時の三井銀行常務の池田成彬に譲渡します。池田はその後日本銀行総裁大蔵大臣を歴任し、晩年には大磯に別荘を構える吉田茂首相の良き相談相手となりました。

伊藤博文の「滄浪閣」、西園寺公望の「隣荘」ともに復元整備を行っている最中ですが、現在のところ一般公開の時期は未定です。

明治記念大磯邸園HP

大隈重信邸、陸奥宗光邸

大磯「旧大隈重信邸」は、大隈重信が内閣総理大臣に就任する前年の1897年(明治30年)に購入し、増改築して使用していました。しかしながら、4年後の1901年に東京早稲田の自宅火災の被害にあったことから、大磯別邸を古河市兵衛(古河財閥創設者)に売却し、その後は古河家が迎賓施設などとして利用することとなりました。ちなみに大隈は、焼失した早稲田の自宅再建にあたり、火災予防の観点から台所をガス化したため「台所ガス化の先駆者」とも言われています。大磯の「旧大隈邸」の住居部分はほぼ明治期の姿が残されており、当時の海浜別荘建築様式を今に伝える貴重なものです。近年再整備されて無料一般公開されています。

陸奥宗光は、1896年(明治29年)病気療養のため大磯に別邸を建てました。この年に病気を理由に外務大臣を辞任し、療養生活に入りましたが残念ながら翌年には他界してしまいました。その後は次男が古河市兵衛の養子となっていたことから古河家に譲渡され、1930年(昭和5年)に一部復元されつつ建替えられ、瀟洒な数寄屋風の海浜別荘建築となりました。この別邸も近年再整備され無料一般公開されています。

旧大隈重信邸座敷 明治記念大磯邸園
旧大隈重信邸座敷(明治記念大磯邸園)

明治記念大磯庭園HP

岩崎彌之助邸

三菱財閥二代目の岩崎彌之助が母の養生所とするため、1890年(明治23年)大磯駅前周辺に32,000坪の土地を購入し別荘を建てました。広大な土地の購入で、困窮していた大磯町の財政を救う大きな貢献をしたとされています。現在は彌之助の姪にあたる澤田美喜を創立者とする「社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム」が、児童養護施設、学校法人として16,000坪の敷地で運営されています。岩崎が大磯の地を選んだ理由のひとつに、岩崎の妻・早苗が後藤象二郎の娘であり、その後藤が1887年(明治20年)に大磯の東側海浜部に別邸を構えていたことも影響しているかもしれません。政界財界の様々なつながりが、大磯に人を吸い寄せていたようです。

安田善次郎邸、浅野総一郎邸

セメント王として有名な浅野総一郎は、明治の中頃から大磯東側山裾に別荘を持っていましたが、1915年(大正5年)に焼失したことを機に、その土地を銀行王の安田善次郎に譲り、自分は更にの奥に移り住みます。安田は譲り受けた土地に別荘「寿楽庵」を建て、周辺の土地を買い増し公園とし「寿楽園」と名付けて一般開放しました。大磯を好み頻繁に「寿楽庵」を訪れていましたが、安田を逆恨みする暴漢に襲われ、82歳の生涯を大磯で閉じます。その後、「寿楽庵」は焼失や関東大震災で被災し、現在の建屋は1926年(大正15年)に復元されたものです。今は安田不動産が所有し、通常は非公開としていますが、年に数回は特別に公開されるそうです。

まとめ

大磯には8人総理大臣経験者が別荘を持ち、その多くは現役の総理大臣時代を大磯で過ごしています。政界の実力者たちがこぞって大磯に暮らすことにより、大磯詣でが行われ、財閥の総裁たちやの幹部たちも多く大磯に別荘を持ったようです。大磯は、南に相模湾、北に丘陵地を持ち、西に富士山を望む景観に恵まれるとともに、海岸沿いに流れる暖流の影響で温暖な気候であることは今でも変わりがありません。今では別荘地としての人気はいまひとつのようですが、行政によって「明治期の政財界人の別荘建築群」を再整備することによって、大磯の魅力を発信する活動が継続されています。大磯を訪れて往年の栄華に想いを馳せてみてはいかがでしょう。

大磯まち歩き(NPO法人)HP

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