電車に乗ると他人の些細な行動で、「迷惑」と感じることがたびたびあります。「座席の座り方」や「荷物の持ち方」、「騒々しい会話」、「出入り口付近から動かない」などの「乗降時のマナー」などで気になることが増えたのは、私の感じ方が変わったのでしょうか、それとも迷惑と感じる行動が増えたのでしょうか。
かつてアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが著書「菊と刀」で指摘したように、かつての「日本の文化」は他者との相対的な空気を意識する「恥の文化」であったとされます。「恥の文化」とは、個人の行動や態度が周囲からどのように見られるか、評価されるかを重要視し、他人から恥をかかないように振る舞う文化でした。かつては、ご近所付き合いや職場での人間関係も濃密で他人との距離も近かったため、他人に気を配りや思いやりを持った言動が日常的に、かつ自然に行われていたように思います。一方、対極にある「欧米の文化」は「罪の文化」で、個人の行動は自分自身の価値観や宗教観に従うこを重要視する文化です。キリスト教では、人は「原罪」を背負って生まれ落ちるという考え方が根底にあり、個人が神の目を意識して「正しい行動」をすることで、「罪からの救い」を得るというストーリーが大きな支柱となっています。
世の中が西欧化し、それに伴い文化的な価値観もどんどん西欧化してきています。「恥の文化」の「恥ずかしいか、恥ずかしくないか」から、「罪の文化」の宗教観に基づく「正しいか、正しくないか」に移行していくことは、ある意味自然な流れなのかもしれません。しかしながら、「正しいこと」に至らず「自分の価値観」に留まって行動してしまいますと、「自分の欲求を満たすか満たさないか」という「欲の文化」に堕落してしまう危険があります。電車内の迷惑行動は、「自分が楽な姿勢で座りたい」「荷物は楽に持ちたい」「自由に会話したい」「出口近くに居たい」という「自分の欲求」に基づくものであり、他人に迷惑をかける以上「正しくない」ですし、「恥ずべき行動」と言えるでしょう。
しかし、「自分の欲求を満たしたい」という自己中心的な人が、そんなに多いのでしょうか。迷惑行為をしているようでも、何かのきっかけで「座る姿勢を正したり」「荷物をずらしたり」と、「気配りを見せる」場面も多く見受けられます。最近は電車の中で、多くの方がスマホを操作し、なかにはイヤホンを付けている方もいます。もしかするとスマホに集中するあまり、電車という公共機関の中にいることを忘れて、あたかもパーソナルスペースのような錯覚に陥って、足を組んだり開いたり、荷物の所在に気が回っていないのかもしれません。また、電車の出入口脇のスペースに立つのが好きだという方によると、「つり革を持たずに立てて、外の景色が見れるし、駅ごとに新鮮空気が吸える最高の場所だ」とコメントされていました。電車内のちょっとした「迷惑行為」には、それぞれ「ちょっとした理由」があるのかもしれません。すぐにイラッとしないで、他人の事情に思いを馳せると、電車内を快適に過ごせるかもしれません。