残高不足でゲートを通れないとき、うしろの方に声をかけますか?

自動改札で、残高不足で通れない状況 「すみません」 エッセイ

駅の自動改札で

駅の自動改札機での出来事です。カードをかざしたのに、短く冷たい「ピッ」という音がして、ゲートは無情にも閉じたままです。「またやってしまった!」交通系ICカードの残高不足で、私のうしろには人の流れを止められた「不機嫌な顔」が並んでいます。こういう時に「すみません」と声をかけることは、私にとっては当然のことだと思いますけど、多くの人はゲートが開かない時でも声を発することもなく、また、止められた人たちも慣れた様子で、改めて足早に改札を通り過ぎていきます。自分のミスでゲートが閉まってしまった場面で、「すみません」と謝る人が少ないのが不思議で、最近使い始めている「AI(人工知能)」に尋ねてみました。

AIの意見

都会の駅の自動改札機は、日々忙しい人たちが無駄なく効率的に移動するためには不可欠で、今ではほぼ全ての改札が自動改札機になっています。一方、改札機前で立ち止まってしまうことは、すでに「迷惑」とか「ミス」とは言えないくらいに日常化しています。止められたうしろの人も「またか」という感じで慣れていて、SNSでは「また前の人、止まった」「自分もたまにやるしな」という呟きが流れています。「AI」によると「すみません」と声をかけない理由は、日本人は空気を読む。会釈やしぐさで謝意を示し、言葉は省略してもいい。公共空間では無干渉がマナーであり、個人的な介入はかえって不自然。システム的な小トラブルは日常茶飯事、誰もが一度は経験済み。礼儀正しさは「知った仲間」で行い、見知らぬ人には形式的にやり過ごす。些細なことまで謝っていたら「謝罪疲れ」になる。というものです。

声をかけることから生まれるもの

無数の「他人」が交錯して流れている駅の改札口では、言葉は不要で無干渉でよく、自分も犯すかもしれない小さなトラブルにはいちいち丁寧に反応しなくても良い、というのが「AI」をはじめとする現代社会の人間関係の考え方です。しかしながら「すみません」と声をかけることによって、礼儀とかマナーの範疇を超えて、人と人がほんの一瞬でも「あなたがそこにいる」と存在を確認し合うことが出来るのではないでしょうか。ほんの一言「すみません」と口にすることで、一瞬だけ他人であった自分が「」を持ちます。「私はここにいます」「ごめんなさい、ご迷惑をおかけします」と、私たちはほんのわずかな時間でも「関係」を持つことが出来ます。

「すみません」の意味

すみません」と声をかけることは、「私」と「あなた」が共にこの場に存在していることを明らかにするとともに、自分にとっては「小さなエラーを犯した、完璧ではない自分」を受け入れ、「迷惑をかけることを自覚し、相手に敬意を示す」ことでもあります。うしろの人が「大丈夫ですよ」と優しく返してくれたなら、その一瞬は忙しい日常のささやかな癒しになるでしょうし、もし何も返事がなくても、私は自分の不手際を認めて、次に進むことができます。実際、仕事帰りの改札がピッと閉じた時「すみません」と口にしたことで、うしろの方が小さく微笑んでくれたことがありました。それだけで、気まずさも恥ずかしさも和らいで、その日の疲れが何割か軽減されたような気がしました。声をかけることは意外な重みと温かさがあり、「自分もまわりも救われた」と感じることが出来るのではないでしょうか。

まとめ

現代社会は都市化が進み、個人主義やプライバシー重視の価値観が広がり、無関心無干渉さえも現代的だとAIは指摘しています。それでも、我々はやっぱり「他人」のなかで生きています。たとえ一瞬でも自分の存在を相手に認識してもらい、また自分もまた誰かに気遣いの言葉をかける。その小さなやり取りには、まだまだ見過ごしてはいけない価値があるのではないでしょうか。