先日、健康診断の便潜血検査で便のサンプルを取ろうとしたときに、トイレの自動水洗機能が作動して便が流れてしまうという悲劇が起きました。便利すぎる現代の機器がかえって不自由を招く典型例と言えるかもしれません。この出来事をきっかけに、私たちの生活に浸透した「便利すぎる機能」が抱える不合理について考えてみたいと思います。
便利すぎる機能の落とし穴「便利害」
自動水洗トイレは、手を触れずに水が流れるため衛生的であり、忙しい現代人にとっては非常にありがたい便利機能です。しかし、健康診断の便潜血検査のように、便のサンプルを採取しなければならない場面では、この便利さが逆に障害となります。便利機能が「できることをさせてもらえない機能」になってしまった典型例とも言えるでしょう。生活のあらゆる場面で効率化と自動化を追求してきましたが、その結果として「自分で行う作業」や「自分で調整する自由」が奪われてしまうことがあります。
人が関与する楽しみ「不便益」
一方、ロボット掃除機は掃除の手間を減らしますが、掃除前には床の物を片付けるという「ひと手間」が必要です。自らが物を片付けることで、自分の生活空間に向き合い工夫する楽しみが生まれます。こうした不便が「不便益」と呼ばれ、気づきをもたらし人生に豊かさを与えます。たとえば自宅の掃除やメンテナンスは、家への愛着を育むとともに感性を高め、暮らしの豊かさを育みます。また庭の手入れは、草むしりや水やりなど不便で手間が掛かりますが、一方では自然の移ろいを肌で感じ、季節感にどっぷりと浸ることが出来ます。
「便利害」と「不便益」の整理
便利さが過剰になることで生まれる「便利害」と、不便だからこそ得られる価値や楽しみの「不便益」の関係性について、わかりやすく以下に図示してみました。

右上の「便利益」と左下の「不便害」は、「便利で良いこと」と「不便で悪いこと」ですのでわかりやすいですね。
右下の「便利害」は、人が関与することがなくなることから生じる弊害です。例えば車の自動運転は、運転好きな人からドライブの楽しみを奪ってしまいます。また、昔のお風呂は水をためてからガスで沸かしたので、上の方はちょうどいい温度でも、下はぬるいということがありました。水は温度によって比重が変わり、温度にムラがあるのが自然の理ですが、自動給湯システムではその理屈はわかりません。「物事のブラックボックス化」が進むことで、物事の理屈に対する理解力が低下してしまいます。
左上の「不便益」は自分で状況に対処することになるので、能力の向上や技術の上達が期待できます。主体性をもって工夫を凝らし、自分のオリジナルな状況を造ります。例えば介護施設での「バリア・アリー」の採用は、あえてバリアを設けることで身体機能の低下を防ぐことを狙っていますし、電子辞書に代わり「紙の辞書」を使うことで、調べた単語以外にも目が行き、知識の広がりに寄与すると言われています。また、目的地が遠く「不便」な場合には、歩く時間が生まれます。途中で人間観察を楽しんだり、気分転換をしたり、プロセスを楽しみ・理解することで安心し、また発見する喜びもあります。
まとめ
このように、便利すぎる機能が「自分でやる楽しみ」や「調整の自由」を失い、不便さが「能力の向上」や「楽しみ」「発見の喜び」に結び付くことがあります。「便利だからいい」という単純な価値観を見直し、「便利害」と「不便益」を区別して考え、便利さと不便さのバランスを意識することが大切だと思います。