門司港でみた夕焼け~生き方に想いを馳せる

門司港レトロ 夕焼け 日常生活で想う
日常生活で想う
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門司港 夕焼け、船、下関
門司港の夕焼け、対岸は下関

門司港には、明治から大正にかけての面影を伝える建物が並んでいる。煉瓦や石を用いた重厚な洋館と、往時の繁栄を偲ばせる駅舎などがあり、岸壁の先の関門海峡には多くの船が行き交っている。昼間は「歴史の舞台装置」であったり「海運の要衝」としての魅力にあふれているが、日が傾くと街はまったく別の表情を見せた。

空が「真っ赤」に燃えているのである。門司港レトロの建物の屋根やドームが、その光を受けて静かに輪郭を浮かび上がらせる。海に目を移せば、停泊する船の黒い影が夕焼けのなかに浮かんでいた。関門海峡の先には対岸の下関の街の灯が見え、背後の山の上は赤く染まり天空に向かって徐々に青くグラデーションしてゆく。広大な空と海、黒い影の船と対岸の街の灯、輪郭が浮かぶ洋館は、まるで完成された一枚の絵を見るようであった。

人は夕焼けを見ると、なぜこれほど心を動かされるのだろう。朝焼けには始まりの気配がある。これから一日が開かれていくという希望や緊張がある。それに対して夕焼けは、終わりの光である。一日という小さな人生が、静かに幕を閉じてゆく時間だ。万人が等しく夕暮れを迎える。その公平さと抗いようのなさが夕焼けに荘厳さをもたらし、信仰心にも近い「祈りの気持ち」が生まれるのだろう。

「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る」ー幼い頃から耳になじんだこの歌には、暮れゆく空を見上げる人々の生活がある。遊び疲れた子どもが家路につき、遠くで鐘が鳴る。そこには、日常の終わりを受け入れる穏やかな心があるように思う。鐘の音は時間を告げるだけではない。今日という日を無事に終えられたことへの感謝、そして明日を迎えることへの祈りを、そっと呼び起こす。

ミレーの「晩鐘」もまた、夕暮れの祈りを描いた作品である。畑仕事の手を止めた二人の農夫が、遠くの鐘に耳を傾け、頭を垂れている。そこに描かれているのは華やかな宗教儀式ではない。土に触れ、日々を働いて生きる人々が、夕方の一瞬に天を仰ぐ姿である。人生には、自分の力だけではどうにもならないことが数多くある。そのことを知る人ほど、沈みゆく太陽の前で自然に襟を正すのではないだろうか。

門司港で見た夕焼けにも、私はどこか祈りに似た気持ちを抱いた。特別な願いがあったわけではない。ただ、これまで過ぎ去った日々のこと、出会った人々のこと、思いがけず与えられた幸運のことなどが、静かに胸の内を通り過ぎていった。

人生の時間もまた、夕焼けのように刻々と色を変える。若い頃には、明るい昼の光がいつまでも続くように思えた。しかし年齢を重ねるほど、限られた時間のなかで何を見つめ、誰と過ごし、何を残すのかを考えるようになる。それは決して寂しいことではない。むしろ、終わりがあるからこそ、今この瞬間の光が充実したものになる。

夕焼けは、人生の終わりを思わせながら、同時に明日への静かな希望も教えてくれる。だから人は、何度見ても空を見上げ、その美しさに魅せられるのだろう。