小倉遊亀(おぐら ゆき)は1895年(明治28年)大津市に生まれ、上村松園、片岡球子と並ぶ日本を代表する女性画家の一人です。特筆すべき点のひとつは105歳の長寿を得たこととで、もう一つは43歳の時に30歳上の小倉鉄樹と結婚したことです。小倉鉄樹は、明治維新の立役者である山岡鉄舟に禅を学び、禅寺で修行三昧の毎日を送る学識豊かな人物でした。
小倉遊亀の画風
師匠 安田靫彦(やすだ ゆきひこ)の教え
1920年(大正9年、25歳)に横浜の女学校に教師として赴任したのを機に、大磯の安田靫彦を訪ね入門を許されます。自分の描く画は皆同じよう形になると悩む遊亀に、安田は「見た感じを逃さぬように心掛けてゆけば、その都度違う表現に至る」とし、「一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入る」と諭しました。この言葉が終生の遊亀の画作の指針となります。
画風の変遷
小倉遊亀の画風は、時代とともに大きく4つの変遷を見せます。
55歳まで
小倉遊亀は、1938年(昭和13年)43歳の時に小倉鉄樹と結婚します。時に鉄樹73歳であり、鉄樹の保養を兼ねて四万温泉の山口館に数回遊んだといいます。「浴女」はその時の作品で、細密な描写や端正な構成が特徴的です。白い四角いタイルと緑色の揺らめく湯が鮮やかで、光と水で錯覚する歪んだ面や屈折した線が、透明な水の質感を引き出しています。

56歳から70歳
「娘」は、1951年(昭和26年)56歳の時の作品です。戦後、新しい時代の日本画が待望される中で、マチスやピカソなど西洋絵画を研究し、その成果を大胆に取り入れた画家として、大きく飛躍します。

71歳から80歳
「径(こみち)」は、1966年(昭和41年)71歳の時の作品です。円熟期に達した小倉遊亀独自の境地を見ることができます。この年に遊亀は中国に外遊し、お釈迦様という先達のあとを懸命に追う修行僧の姿に感じ入り、画にしたものと言われています。

81歳以降
80歳を超えても遊亀の創作意欲が衰えることはなく、2000年(平成12年)に105歳で亡くなるまで毎年日本美術院展に出品を続けています。95歳の時の作品「半夏生」の花穂の丹念な描写には驚きます。気に入るまで描き続ける執念、あるいは法悦の境地に達しているのかもしれません。

鉄樹の影響
小倉鉄樹と遊亀の結婚生活は、鉄樹が80歳で死去したことにより7年間しかありませんでした。しかしこの結婚生活が、かけがえのない心豊かな生活をもたらし、遊亀の画も自由に解き放たれていきました。輪郭の奥にひそむ本質をとらえようとした遊亀の画の哲学は、鉄樹によりもたらされたと言っても過言ではないでしょう。遊亀は毎朝4時に起きて「般若心経」を唱えることから一日を始めたと言います。信仰心がある遊亀が描く花も子供も人物も裸婦も、皆おおらかであるのは、描く対象に仏性を観るともに、作品から仏性を感じて欲しいと願っているからでしょう。
まとめ
1980年(昭和55年)に85歳で女性画家として二人目となる文化勲章を受章したことが示すように、国内で確固たる評価と地位を築きました。一方、50歳を越えて世に広く認められた遅咲きの画家でもあり、彼女自身が「60代から仕事が面白くなり、70代が仕事ざかり」と述べています。1990年(平成2年、95歳)から1996年(平成8年、101歳)にかけて日本美術院の理事長を務め、1999年(平成11年)には104歳でパリでの個展を開催するなど、老いてなお益々活躍しました。2000年(平成12年)7月に105歳で逝去しますが、2か月後の9月には絶筆となった「盛花」が院展に出品されます。
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