芥川龍之介が、梅原龍三郎の画を見て「この人は一体何を食べているのだろう」と言ったといいますから、作家というのは面白い表現をするものです。日本人離れした豪快なタッチと豊かな色彩に圧倒されて、絞り出された言葉なのでしょう。実際、梅原龍三郎は大変な健啖家だったようです。朝はトーストにキャビアとフォアグラ、昼は牛乳のスープにバターと塩・胡椒を入れて飲み、夜はうなぎの蒲焼かビフテキ、あるいは中華料理が定番だったそうです。うなぎの蒲焼は2~3人前は食べ、フカヒレやナマコは旨いと聞くや中国にまで食べに繰り出しました。日本料理は「風を食ってるようで、物足りない」と言って鰻以外にはあまり興味を示さず、もっぱらフランス料理と中華料理を好みました。朝からスコッチウイスキーを飲み、長年親交のあった女優の高峰秀子によると「お酒に酔ったところを見たことがない」というほどの酒豪であり、「くわえ煙草」で画作をするヘビースモーカーでもありました。80歳過ぎの晩年でも、このような生活を送っていたというのですから、確かに日本人離れするパワーが宿っていたのかもしれません。
梅原龍三郎は、1908年(明治41年)に20歳で画を学ぶため渡仏しました。5年間のフランス遊学において梅原は、ルノワールをはじめとするフランスの絵画を学び、言葉を学び、演劇に興じ、料理と酒に親しみ、貪欲にフランスを吸収しました。フランスは梅原が持って生まれた資質に、日本以上に合っていたのかもしれません。そのためか晩年の68歳から89歳の22年間に9回もフランスに渡り、時には1年間の長期にわたり現地に滞在しています。85歳の時にはフランス政府より芸術文化のコマンドール勲章が授与されました。豪快な食事に代表される奔放な日常生活とヨーロッパにまで及ぶ行動力、そして画作への執念が97歳の長寿に結実しています。
同じ画家でも「画壇の仙人」と言われた熊谷守一は、だいぶ毛色が異なります。事業家で政治家の父を持つ富裕層の出身ですが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、淡々と画を書き続けます。42歳の時に結婚し5人の子供を授かりますが、うち二人は貧困の窮乏生活のため医者に見せることもできず、幼くして死なせてしまいます。76歳の時に軽い脳卒中を患ってからは自宅を出ることはせず、夜はアトリエで描き、昼間は30坪の狭い庭に出て一日を過ごしました。庭に来る鳥や昆虫を時には寝っ転がって詳しく観察し、花や空、猫などの自然を観察することは熊谷にとっての小宇宙であり、飽きることなく続けられました。87歳の時に文化勲章授与の内示を得ましたが辞退し、92歳の時の勲三等の叙勲も辞退しました。質素な食生活と毎日繰り返される判を押したような生活が、97歳の天寿を全うします。
「二人の画家」の毎日の様子は大きく異なりますが、自分の本能に忠実に生きていることが生命力を充実させ、長寿に結びついているのでしょう。同じ時代に生きた「二人の画家」は、写実主義を超越した「目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現するフォーヴィスム」に分類される点が共通しています。奇しくも二人の享年は97歳、墓所は共に多磨霊園です。
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