「神田錦町更科」は、1869年(明治2年)に「麻布永坂更科」の分店として開業しました。「麻布永坂更科」は、1789年(寛政元年)麻布永坂の保科家の江戸屋敷そばに「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業したのが始まりで、明治時代半ばの最盛期には皇室や宮家にも、出前を届けた名店です。その流れを汲む「神田錦町更科」についてご紹介いたしましょう。
神田錦町更科外観
現在の建物は、1945年(昭和20年)に建てられた切妻屋根のシンプルな外装です。1、2階の軒の下にズラリと掛かった「神田堀井」と染め抜いた暖簾や、吊り提灯、連子窓、玄関わきの植え込みや看板などで、蕎麦屋らしい雰囲気を醸し出しています。「堀井」は当主の名字で、1875年(明治8年)の名字必称の令により、これまでの屋号「布屋」から「堀井」に改め、本家の「麻布永坂更科」も現在は「総本家更科堀井」と名乗っています。空襲で焼ける前は、大きな敷地で中庭もある立派な料亭のような建物だったようですが、財産税の徴収に際し土地を物納したため、狭くなってしまったようです。
入り口脇には「麻布永坂更科」の分店であることを示す看板が飾ってありました。ここでは屋号「布屋」が使われています。実は本家「麻布永坂更科」は1941年(昭和16年)に不況の影響を受けて一度廃業しています。その後堀井家八代目当主が1984年(昭和59年)に「総本家更科堀井」を再建しましたが、その間も分店「神田錦町更科」は、堀井家直系の伝統を神田錦町の地で守り続けたことになります。
なんと店舗の側面の奥、横の道路に面した建物の一部では、カレー屋さんが営業していました。なんとも不思議な光景です。経緯については敢えてお尋ねしませんでしたけど、いろいろな事情があるのでしょう。
神田錦町更科内観
店舗内部はこじんまりとしていて、全部で20席ぐらいでしょうか。創業150年を超える老舗の敷居の高さは感じず、非常に庶民的で親しみやすい感じです。入口のガラスの建具のガラスには店名の透かし彫りが入っており当時の店主のこだわりも感じられます。行燈風の天井照明や浮世絵、蕎麦屋番付などの額、黒電話などの小物、熊手などの飾り物で和の雰囲気に満ちています。
神田錦町更科お蕎麦
あさり深川汁せいろです。蕎麦はもちろん更科で、量はたっぷりです。つけ汁は濃厚で複雑な味の出汁とあさりが相まって、贅沢な味のつけ汁に仕上がっていました。このつけ汁をそば猪口に取り分けて、蕎麦湯で割って飲むともう止まりません、ほとんど飲み干してしまいました。
江戸神田蕎麦の会
「神田錦町更科」の当主は、「神田まつや」と「かんだやぶそば」などと「江戸神田蕎麦の会」を2001年(平成13年)に立ち上げたそうです。そのほかや地域活動にも積極的に参加しているようですし、ツイッター(現:X)で情報発信もしていますので興味のある方は覗いてみてはいかがでしょう。
蕎麦屋についての別記事があります。ご興味のある方はお立ち寄りください。