新富町の割烹料理屋の「躍金楼(てっきんろう)」は創業が1874年(明治6年)で、その店の名前の名付け親が江戸城無血開城の立役者としても有名な「山岡鉄舟」だといわれています。今も築70年以上となる「国の登録有形文化財」の建物で営業を継続している「躍金楼(てっきんろう)」さんのご紹介と「山岡鉄舟」についても少しまとめてみました。
躍金楼(てっきんろう)について
歴史
躍金楼(てっきんろう)は1873年(明治6年)の創業にあたって、かの有名な山岡鉄舟が中国の漢詩の一節を引用し、「金色に輝く波が躍る」ということから「活きのいい料理を出す」店であることを願って名付けたとされています。現在五代目の店主は毎日豊洲市場に出向き新鮮な仕入れを心掛けているそうです。
外観
建物は築70年以上で「国の登録有形文化財」に指定されています。建物左の入り口が2階座敷の入り口で、右の入り口が1階スタンド席(カウンターと小上がり)の入り口です。戦後間もないころに建てたということで建築の資材不足に苦労したことが言い伝えられています。奥の厨房棟の建物基礎は昔の蔵の基礎をそのまま転用して使っているそうです。
内部
お座敷は全部で4室あって、うち3室がいす席で1室が掘りごたつのお部屋です。
スタンド席と呼んでいるカウンターと小上がりのスペースです。歴史を感じる内装と坪庭を眺めながら、天ぷらなどは目の前で調理していただけます。
お料理など
詳細はお店のホームページなどで確認していただければいいと思いますけど、一人当たりお座敷で10,000円~、スタンド(カウンター)で6,500円~といった感じです。個人的にはアラカルトで季節の一品を頂いたのちに、天ぷらをお好みで少々頂くのが気に入ってます。
店名由来が書かれているカラー刷りのコースターと、普段使いの単色刷りのコースターです。このお店は当時の浮世絵に登場しているんですね。躍金楼は明治期の有名料亭三十六店のうちのひとつだったことがわかります。
山岡鉄舟について
「山岡鉄舟」は、剣、禅、書に通じた幕末・維新の英傑です。旗本・小野家の四男として1836年(天保7年)に生まれ、槍術の師山岡静山の家を継ぎました。戊辰戦争の際は江戸に迫る官軍の陣地に単身乗り込み、西郷隆盛と直談判して江戸城無血開城の合意を取り付けました。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と西郷が称賛した人物です。維新後は明治天皇の侍従職などを務めました。明治政府の維新勲功調査では自らの偉業を主張せず、生涯無私無欲を貫きました。
江戸城無血開城
1868年(明治元年、33歳)徳川慶喜の命を受けて単身で静岡にある官軍の陣地に西郷隆盛を訪ねました。官軍からは城の明け渡しや軍備を解くことなどに加え、徳川慶喜を備前藩に預けることが要求されましたが山岡鉄舟はこれを拒否し、徳川家の安泰を守りました。この際西郷が発した言葉が「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」だと言われています。
明治天皇侍従
1873年(明治5年、35歳)西郷のたっての依頼により、宮中に出仕し10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、1873年(明治6年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られています。
禅、剣、全生庵
1880年(明治13年、45歳)には、禅では天竜寺滴水和尚の印可を得て、剣でも無敵の境地に達し無刀流を開きました。1883年(明治16年、48歳)維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立しました。
墓所、殉死
1888年(明治21年、53歳)座禅のまま大往生を遂げました。葬儀の葬列は、前もって明治天皇の内意があったので皇居前で10分ほど止まり、明治天皇は目送されたとされています。
門人の中には墓前で殉死する者が何人も現れ、殉死の恐れがあるからと警察に保護される者もいたとされます。「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない」と思わせるほどの「鉄舟の死」でした。