「ヴェネチア」の水没を救う防潮堤「モーゼ」、その仕組みと将来展望

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ヴェネチアの風景 趣味
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美しいヴェネチア~水没の危機

ヴェネチアは世界唯一の水上都市で、ゴンドラなどの水上交通と歴史的建造物、車が排除された迷路のような街並みが魅力の観光都市です。ヴェネチアン・グラスやヴェネチアン・カーニバル、美味しい海鮮料理などが多くの人を魅了し続けています。

ところが、ヴェネチアでは「アックア・アルタ」と言われる高潮により、街中での浸水が時折起こります。大潮、低気圧、シロッコと言われる風、の三つの条件が重なることで高潮が起こり、ヴェネチアの街に水が入り込んでしまうのです。低い位置にあるサン・マルコ広場は水没しますし、街の至るところで膝の高さまで浸水し、長靴を履いた人々が行き来し、仮設で組まれた高床の上を歩く情景は、ヴェネチアの名物にもなっていますが、暢気な話ではなくなってきています。なぜなら、水没や浸水の水位は年々上昇し、深刻化しているのです。地下水を汲み上げる地盤沈下のほか、主な原因は地球温暖化による海面の上昇とされていますので、このまま地球温暖化が進むと、ヴェネチアはアドリア海に沈んでしまうことになります。

モーゼの基本構造と仕組み

ヴェネツィアに押し寄せる高潮を防ぐために、防潮堤の建設が計画されました。「モーゼ」は、ヴェネチアのあるラグーナと、アドリア海を結ぶ「3つの狭い海峡」を可動ゲートで閉鎖し、高潮から歴史都市を守るシステムです。1980年代に設計され、2003年に工事着工、2020年に運用が開始されました。 ​

モーゼが防潮堤として立ち上がる様子

モーゼは78枚の可動式ゲートを開閉する防潮システムです。ゲートは通常は海底の「箱(ケーソン)」に寝かされており、中に海水が入った状態で沈んでいます。高潮が予測されると、内部の海水を圧縮空気で押し出し、浮力でゲートを立ち上げて、ラグーナと外海との間に「一時的な壁」を作ります。潮位が下がると再び海水を取り込み、ゲートは海底に戻り、航路や水の交換が再開されます。

モーゼの仕組みの説明断面図

なぜ「海の中の堤防」で高潮を防げるのか

ヴェネツィアは外洋に面した街ではなくラグーナの中にあり、外洋のアドリア海とは3つの狭い海峡でつながっているため、この「水路」さえ閉じれば、都市全体を守ることができます。ラグーナはいわば大きな「水たまり」で、そこへの出入り口が3か所に集中しているため、400m規模のゲート列を数カ所閉じるだけで外海からの水の流入を抑えられます。設計上は最大約3mの高潮まで防御可能とされており、過去に何度も浸水させてきた高潮「アックア・アルタ」の多くをカットできる能力があります。

ヴェベチア・ラグーナと三つの海峡

歴史都市を守る意義

ヴェネツィアは、サン・マルコ大聖堂をはじめとする世界的な文化遺産と、観光を軸とした経済に支えられた都市であり、繰り返される浸水は建物、インフラ、観光業に深刻なダメージを与えてきました。2019年の「アックア・アルタ」では潮位が187cmに達し、市街地の約9割が冠水する大被害となり、「このままでは街そのものが維持できない」という危機感が一気に高まりました。モーゼはその後の試験稼働で、135cm程度の高潮時にサン・マルコ広場を含む市街への浸水を大幅に抑え、「沈みゆく都」というイメージに対し、具体的な防御手段を示した象徴的なプロジェクトとなりました。

高潮で冠水するサンマルコ広場(2019年11月)

将来の見通しと課題

気候変動に伴う海面上昇が続くので、高潮「アックア・アルタ」の頻度と高さは今後も増大が予測されています。シミュレーションでは、2050年頃には年間数100回レベルでモーゼを閉じる必要性が指摘されており、「たまに使うバリア」から「常時閉鎖に近い門」へと性格が変わるリスクがあります。ゲートを閉じると水上交通への障害があることはもちろん、ラグーナと外海の水交換が止まるので、潮流・堆積・塩分などの条件が変化し、生態系や水質への影響が懸念されています。

また、現在の潮位110cmでモーゼを閉じる運用では、90cm程度で浸水してしまうサン・マルコ広場は依然としてリスクを抱えており、観光産業への影響は完全には払拭できていません。「どの潮位で、どれくらいの頻度で閉じるべきか」をめぐる市民・行政・専門家の議論は今も続いています。

​さらには、モーゼの建設にあたっては工事の長期化や設計変更、物価上昇、汚職スキャンダルなどを経て、最終的に約60億ユーロ(約9,000億円)に膨張しています。また、モーゼを1回閉じるコストは、電力・圧縮空気・人件費などで約20万ユーロ(約3,000万円)と推計されており、2020年以降の数年間でおよそ100回前後作動したので、累計運転費は約2,000万ユーロ(約30億円)にも上っています。このほかに、年間の維持管理費(清掃・補修・点検など)が8,000万ユーロ規模(約120億円)になるという推計もあり、建設コストだけでなく運用コストも非常に高い施設だと指摘されています。今後の海面上昇で閉鎖頻度が増えれば、運用コストが雪だるま式に膨らみ、長期的にはイタリア財政の重荷になる懸念もあります。

まとめ

2019年11月12日の「アックア・アルタ(潮位187cm、観測史上2位)」では、ヴェネチア本島の90%が冠水し、市民生活と観光産業への打撃、施設インフラへの大きな被害をもたらしました。筆者は、前年の2018年11月にヴェネチアを観光で訪れていたのですが、その時でもサンマルコ広場周辺は水浸しとなり、仮設の高床の足場を通って移動する状態でした。その後は2020年からモーゼが稼働を開始しているので、大規模な浸水は防げていることでしょう。

サンマルコ広場裏路地(2018年11月、筆者撮影)

​ところがモーゼは、永遠にヴェネツィアを救う「決定版」とはなりえず、「数十年間の時間を稼ぐ装置」としての意味合いが強いようです。都市側のかさ上げや建物保全、利用の仕方を変えることで「モーゼに頼り過ぎない構造」にする方向で、「高コストな装置をどう賢く使うか」を行政・市民・有識者が研究しています。市民生活と経済活動への影響を考慮し、「どこまで海を拒み、どこから海と共生するか」という、都市形成の哲学が問われているのが、モーゼの現在地と言えるでしょう。