山田守は東京大学卒業後、逓信省営繕局に入省し多くの逓信建築を手掛けています。51歳で退官後、山田守建築事務所を設立し、東海大学の理事を務める傍ら、建築学科の教授も務め後輩の育成、大学校舎の建築も手掛けます。1964年には「日本武道館」「京都タワー」が相次いで竣工し、一躍その名声が高まります。モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を多く残しています。
年表と主な作品
逓信省に入省後、庁舎の建設を行っていましたが、関東大震災が発生したため復興局土木部の嘱託となり、橋梁の建設に携わります。その後欧州への長期視察に出向いたのち、庁舎のほか病院も多く手がけました。退官後は東海大学の設立に関わり教授となるほか、晩年には日本武道館、京都タワーの設計を行いました。
1920年 | 大正9年 | 26歳 | 東京帝国大学建築学科卒業、逓信省営繕課入省 |
1923年 | 大正12年 | 29歳 | 関東大震災 |
1924年 | 大正13年 | 30歳 | 復興局土木部嘱託 |
〃 | 〃 | 〃 | 旧門司郵便局電話課竣工(現、NTT門司電気通信レトロ館) |
1925年 | 大正14年 | 31歳 | 東京中央電信局竣工(現存せず) |
1926年 | 昭和元年 | 32歳 | 永代橋竣工(重要文化財) |
1927年 | 昭和2年 | 33歳 | 聖橋竣工 |
1929年 | 昭和4年 | 35歳 | 逓信省の命により欧州視察(~1930年) |
1937年 | 昭和12年 | 43歳 | 旧東京逓信病院竣工 |
1945年 | 昭和20年 | 51歳 | 逓信省退官 |
1949年 | 昭和24年 | 55歳 | 山田守建築事務所設立、東海大学設立に関与 |
1955年 | 昭和30年 | 61歳 | 東海大学代々木校舎1号館竣工。以降連続して校舎竣工。 |
1959年 | 昭和34年 | 65歳 | 自邸竣工 |
1964年 | 昭和39年 | 70歳 | 日本武道館竣工 |
〃 | 〃 | 〃 | 京都タワー竣工 |
1966年 | 昭和41年 | 72歳 | 逝去 |
逓信省庁舎
庁舎建築の代表作は、1925年(大正14年)竣工の東京中央電信局です(現存していません)。頂部の連続するアーチが優美な曲線で、とても特徴的な外観をしています。鉄筋コンクリート造で、外装は白色タイルです。従来の様式とは異なり、純粋な抽象幾何学的造形をデザインモチーフとしているモダニズム建築の初期の特徴が見て取れます。一見すると教会のような雰囲気も醸し出しています。
右の写真は、同じころに竣工した旧門司郵便局電話課の建物です。ここにも放物線的な曲線の繰り返しがあり、心地よいリズム感です。これらのほかにも全国的に数多くの電話局や郵便局を設計しています。
震災復興橋梁
左の写真は聖橋で、東京都お茶の水の神田川上部にかかるアーチ橋です。鉄筋コンクリート造で、関東大震災後の震災復興橋梁のひとつです。両岸にある湯島聖堂とニコライ堂を結んでいるため、聖橋と命名されました。橋梁側面の連続するアーチが、山田守のデザインの特徴を表し、とても優美です。
病院建築
逓信省は、郵便、通信、運輸を管轄する中央官庁で、その職員と家族を対象の職域病院として東京逓信病院が開設されました。その後1986年(昭和61年)には一般開放され、郵政省関係者以外の利用も可能となりました。旧東京逓信病院は、大規模で白亜の御殿と呼ばれる近代的なスタイルで、岸田国士原作「暖流」の舞台として脚光を浴びました。その後、東京、大阪、広島、熊本などで、逓信省関連の病院施設の設計を数多く手がけています。
自邸
自宅建設の経緯
東京青山に65歳にして初めて自宅を建てましたが、この家は自宅兼事務所として計画されています。当時の設計事務所は港区内にあり、この自宅は事務所分室のように活用されていました。
自宅兼事務所を建てることになった経緯は、奥様の「一度は本当の家に住みたい」という希望を受け入れ、やむを得ず「本当の家」を建てることにした、ということだといわれています。
自宅平面図
平面図の赤い部分が家族が住むプライベートな空間で、青い部分(1階と3階)はアトリエと事務所があるパブリックな空間です。各階へは外付けの螺旋階段でアクセスするため、パブリックとプライベートが入り交じることがなく、階段のための床面積も抑えられます。
庭との関係
南側の庭は築山風に盛土され、2階のプライベート空間との距離感が非常に近くなっています。その先の道路からの視線を遮ることも相まって、あたかも森の中にいるような雰囲気が演出されています。
階段室
自邸のポイントとなる優美で楽しげな螺旋階段の階段室です。曲面が多用され、山田守が好んで使った丸いガラスブロックが印象的です。
京都タワー
京都駅北側にあった京都中央郵便局が移転することとなり、跡地に物産観光センターの建設が検討されていました。当初は屋上に巨大なタワーを建てることは想定していませんでしたが、建物内部に影響を与えずにタワーを建築出来る事が判明し、山田守が設計を担当します。この際、単なる鉄骨による無骨なタワーでは京都の表玄関には相応しくないとして、白い円筒状の優雅なデザインを採用しましたが、建設当初は物議を醸しだしました。
高さは131mで、灯台をイメージしたデザインです。鉄骨を一切使わずに、円筒形の鋼板をつなぎ合わせる「モノコック構造」を日本で初めて採用しました。設計安全率は一般の建築物の2倍以上を想定しています。
武道館
1964年に開催された東京オリンピックの柔道競技会場として建設されました。デザインモチーフは日本の木造建築の代表作ともいわれる法隆寺の夢殿であるため、八角形をしています。
東京オリンピック開催の2年後には、ビートルズの来日公演の会場となったため、以来「音楽の殿堂」とも称されています。
2020年の東京オリンピックに備えた改修にあたっては、初代山田守建築事務所の流れを汲む、現在の山田守建築事務所が増改築設計を担当しています。
日本武道館は年間約350日の高稼働率を誇ります。高い収益性も相まって、建替えではなく、リニューアルする道を選びました。
まとめ
逓信省の技官として定年近くまで数多くの逓信建築を世に送り出し、その後は大学の設立に関わり後進の育成と学校建築に携わるなどメリハリの利いた生涯のように思えます。初期のころからの曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインは、日本武道館や京都タワーに繋がり集大成となっているのでしょう。
特に自邸の設計は興味深く、かつては見学会も催されていたようですが、またその機会がないものかとひそかに期待もしています。門司の旧門司郵便局電話課は、現在NTT門司電気通信レトロ館として見学が可能です。門司に訪問した際の記事がありますので、興味のある方はお立ち寄りください。