株式仲買商の岩本栄之助は日露戦争の暴騰相場で巨万の富を手にします。1909年(明治42年)に渋沢栄一が率いる「渡米実業団」に参加しアメリカ大都市の公共施設の立派さや、アメリカの富豪たちによる慈善事業と寄付の習慣に強い感銘を受けました。岩本栄之助は帰国後の1911年(明治44年)に100万円を大阪市に寄付します。現在の貨幣価値では50億円~100億円に相当する巨額の寄付です。
中央公会堂の歴史
設計競技
1912年(大正元年)に懸賞金付き設計競技が行われました。日本建築界第一人者の辰野金吾が全国で活躍する17名の建築家を指名し13名が設計提案を行ったところ岡田信一郎の案が採用されました。その後辰野金吾が全体構成と部分的な意匠に手を加え、1913年(大正2年)工事に着手します。
設計提案図3点 出典:大阪市中央公会堂 展示室
工事と不慮の事故
1913年(大正2年)に工事着手しますが、1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦の影響もあり資材の供給が遅れ工事は遅延します。戦争は株式相場にも影響を与え、岩本栄之助は莫大な損失を被ってしまいます。寄付金を少しでも返してもらったらという声にも栄之助は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」と言ってこれを拒否し、1916年(大正5年)ピストル自殺を図ります。享年39歳の若さです。その後も公会堂の建設工事は続けられ1918年(大正7年)に開館の日を迎えます。
写真3点 出典:大阪市中央公会堂展示室HP
保存再生工事
中央公会堂の老朽化が著しくなった1965年(昭和40年)頃から、中之島地区の歴史建築物の保存あるいは再開発の議論が盛んになってきました。大阪市は1985年(昭和63年)に中央公会堂の永久保存を決定し、その費用を広く市民に募ったところ7億円の寄付が集まりました。修復にあたっては創建当時への復元を基本とし、同時に耐震性の向上と利用しやすい設備に改修することとし、1999年(平成11年)保存再生工事に着手しました。2002年(平成14年)に完成し、外観内観ともに意匠の完成度が高いことが評価され国の重要文化財に指定されます。
現在の中央公会堂
外観
東正面玄関
中央の半円アーチは外観デザインを特徴づける大きな要素になっています。屋根の上には商業の神様メルキュールと、化学・工芸・平和の女神ミネルバの神像が設置されています。
南面
規則的に並んだ縦長の窓と水平に連続する庇が印象的です。白い花崗岩と赤煉瓦の組み合わせは辰野金吾が好んで使う手法で辰野式といわれています。
フロアプラン
B1階
地下はレストランと常設の展示資料室、貸し会議室があります。南側道路からアクセスしやすいようにサンクンガーデンが保存改修工事で新設されています。そのほかエレベーター設置、バリアフリー化も行われています。
1階 大集会室
国際的なアーティストによるオペラやコンサートが行われます。創建当時の姿にこだわりつつ音響効果など現代的なニーズにも対応しています。
大集会室前のホワイエです。左が東面の正面玄関で右が大集会室です。
中集会室
もともとは食堂として設計されていました。訪問時には市民に貸し出されていて、中で音楽会が催されていたようです。
特別室
特別室には松本壽氏による日本神話をモチーフとした天井画と壁画があります。創建当時は貴賓室として使用されていました。
特別室のステンドグラスは104枚のパネルに5,162枚のガラス片で造られています。保存改修工事にあたってはすべてのガラス片を取り外し、洗浄して修復のうえ復元していますので往時の輝きが甦っています。
その他
創建当時は地盤強化と建物基礎として松杭が4,000本打ち込まれていました。空気から遮断されていたため100年前とは思えない瑞々しさです(写真左)。階段室もきれいに修復されていました。手摺の金物細工や腰壁の石のデザインも凝っています。
まとめ
岩永栄一郎が家督を継いで株式仲買人になったのは29歳。渋沢栄一の渡米実業団に参加しアメリカの寄付の習慣に感銘を受けたのが32歳。34歳で大阪市に100万円を寄付し、36歳のときに中央公会堂の工事着工ですが、3年後にピストル自殺します。その後も工事は続けられ2年後開館を迎えます。
大阪市が中央公会堂の永久保存を決定したことは素晴らしいですし、それに応じて修復工事の費用が寄付により7億円集まったのも素晴らしいと思います。訪れた際には市民の方々が会議や講演、文化活動でこの重要文化財の施設を多いに活用しておられました。
辰野金吾に関する別記事があります。ご興味のある方はお立ち寄りください。