フランク・ロイド・ライトは近代建築の巨匠のひとりで空間の魔術師と異名を持つ建築家です。その作風は自然と人間の調和を図る有機的建築、水平ラインを強調したプレーリースタイル(草原様式)、建築空間の内と外の曖昧な境界などの特徴があります。そんなライトが日本に残した建物が4棟現存し、見学可能な3棟すべてに弟子の遠藤新が大きな貢献をしていますのでご紹介しましょう。
「フランク・ロイド・ライト」の作品
旧帝国ホテル
中央玄関 外観
1923年(大正12年)に完成した旧帝国ホテルは竣工直後の関東大震災にも耐え、1967年(昭和42年)まで使用されました。その後中央玄関部分は愛知県犬山市の「博物館明治村」に移築され登録有形文化財として見学が可能です。軒高を抑え水平ラインを強調したプレーリースタイル、深い軒と幾何学模様の装飾、大谷石を多用したライトの設計の特徴が随所に表現されています。
平等院鳳凰堂を設計モチーフとしたとされ、左右対称で両翼に客室を配しています。正面中央には池とに車寄せと中央玄関があり、中に入るとホールとなっています。
内観 大谷石、テラコッタタイル、スクラッチレンガ
内部は、彫刻された大谷石とテラコッタタイル、スクラッチレンガの装飾が見事です。メインロビーは3階まで吹き抜けていますが、エントランスの低い天井の先にあるので、空間の広がりが強調されます。ステップフロアーで演出される空間の変化は、空間の魔術師と言われたライトの技巧のひとつです。透かし彫りから漏れる光や、細部にこだわった柱や壁のデザインは、ライトが影響を受けたマヤ文明のテイストも感じます。
自由学園
明日館 外観
1921年(大正9年)に設立された自由学園の教育方針に感銘したライトが基本設計を行い、ライトの弟子である遠藤新が実施設計を引継ぎ完成させました。1922年(大正10年)には中央棟(明日館)と西教室が竣工し、1925年(大正13年)には東教室棟、1927年(昭和2年)には講堂が竣工しました。1997年(平成9年)国の重要文化財に指定されましたが、今でも見学のほかイベントでも活用可能な施設です。
正面の中央棟から左右に教室を配し、そこからコの字型に東西教室を配するシンメトリーな形状です。軒高は低く地面に水平なラインが強調された典型的なプレーリースタイルであり、大地との調和が表現されています。
明日館 内観
前庭を望むホールの大きな窓は明日館のシンボル的存在です。工事費が限られていたため、高価なステンドグラスの代わりに木製の窓枠や桟で幾何学的なデザインを施し、洗練された空間を演出しています。
自由学園の教育方針のなかに「昼食は温かいものを全校生徒が揃って食べる」がありましたので、食堂は校舎の中心に設けられました。質素な中にも洗練されたデザイン、凝った照明器具が空間を引き締めています。
ホールの大きな窓の反対側部分は、一転して低い天井と大谷石で落ち着い空間を演出しています。低い天井部分から大きく開かれた空間へのアプローチは、旧帝国ホテル玄関ホールと同じです。
ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)
旧山邑家住宅は灘の酒造家山邑(やまむら)太左衛門の別邸として、ライトの設計で建設されました。現在は淀川製鋼所の迎賓館、ヨドコウ迎賓館として重要文化財に指定され、一般公開もされています。
ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)はライトの設計がほぼ完全な形で残る貴重な施設です。
ヨドコウ迎賓館の詳細な別記事がありますので、ご興味のある方はお立ち寄りください。
年代別の「ライトの作品」と「遠藤新」
年表
日本に現存する4棟のライトの作品を年代別に整理しました。
ライト | 遠藤新 | 旧帝国ホテル | 林愛作(邸) | 旧山邑家住宅 | 自由学園 | |
1913 | 再来日 | 設計開始 | 帝国ホテル支配人 | |||
1917 | ライトに師事 | 林愛作邸、竣工 | ||||
1918 | 基本設計完了 | |||||
1922 | 解任、帰国 | 事務所開設 | 支配人、辞任 | 明日館、竣工 | ||
1923 | ↓→→→→→ | 工事竣工 | 工事着手 | |||
1924 | ↓→→→→→ | →→→→→→ | →→→→→→→→ | 工事竣工 | ||
1925 | ↓→→→→→ | →→→→→→ | →→→→→→→→ | →→→→→→ | 東教室、竣工 | |
1927 | ↓→→→→→ | →→→→→→ | →→→→→→→→ | →→→→→→ | 講堂、竣工 |
年表解説
- ライトは、1913年帝国ホテルの設計のため再来日をします。その後何度か来日し帝国ホテルの設計に従事します。帝国ホテル竣工の前年の1922年に工事費の予算超過が原因で解任され帰国してしまいます。
- 遠藤新は1917年ライトの事務所で助手となり、ライト帰国後の1922年設計事務所を立ち上げて旧帝国ホテルを完成させ、次いで旧山邑家住宅の工事に着手します。
- 林愛作は1909年より帝国ホテルの支配人をしており、1913年ライトに帝国ホテルの設計を依頼します。1917年には東京駒澤に自邸(林愛作邸、朋来居)をライトの設計で建設しました。現在は電通の所有ですが一般公開はしていません。1922年隣接する初代帝国ホテルの火災の責任を取り帝国ホテル支配人を辞任したのち、遠藤新の設計で甲子園ホテルを建設し、1930年同ホテル支配人となっています。
「遠藤新」の貢献と活躍
ライトの作品を完成させる
ライトが1922年に帰国しましたので、その後の仕事は遠藤新が行いました。ライトが帰国する年に「明日館」が竣工し、翌1923年には「帝国ホテル」が竣工します。続いて「旧山邑家住宅」が着工し、1924年に竣工します。基本設計はライトが主導していましたが、実施設計、工事監理は遠藤新がおこないました。まさに遠藤なしにはライトの作品は竣工を迎えなかったといえるでしょう。
自由学園のホームページによると、東教室(1925年竣工)と講堂(1927年竣工)は遠藤新の設計であると明記されています。それでもライトの設計思想を受け継いで違和感なく全体が調和を保っています。
甲子園ホテル(武庫川女子大学)
帝国ホテル支配人を辞任した林愛作の求めに応じて、遠藤新は甲子園ホテルの設計を行います。外観はライトの設計と見紛うほど酷似していますが、内部は導線の工夫や和室の採用など、遠藤新独自の設計思想が盛り込まれています。1930年に竣工したホテルの営業は14年間に過ぎず、その後は海軍病院や米軍による接収などを経て、現在は武庫川女子大学が保存活用しています。事前申し込みにより、月に数日は見学を受け入れています。
戸倉温泉 笹屋
1932年(昭和7年)遠藤新は信州戸倉温泉「笹屋」の本格数寄屋造りの別棟を手掛けます。客室は全8室で客室間に壁を設け、完全な個室のスタイルを初めて導入しました。部屋から一段下がった広縁に椅子とテーブルを置き、その先の庭との一体感を図る試みも遠藤新が考案したものです。広縁の下がりは7寸(21㎝)で、座敷に座った人と、椅子に腰かけた人の目線が合うことが計算されています。
まとめ
2019年にフランク・ロイド・ライトの手掛けたアメリカにある8つの建築作品が、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。まさに近代建築の巨匠です。旧帝国ホテルをはじめ日本においても大きなインパクトを残したライトでしたが、少し早い帰国でその完成を自らの手で実現することはできませんでした。遠藤新をはじめとする愛弟子たちは、ライトの意志を引き継ぐとともにその思想を昇華させ、日本における近代建築の発展に大きく寄与することとなりました。帝国ホテルの設計補助のため1919年に来日したアントニン・レーモンドは、1922年日本で自らの事務所を開設し、前川國男や吉村順三に影響を与えたといいます。ライトは建物だけでなく、人も残してくれているんですね。
ヨドコウ迎賓館の記事があります。ご興味のある方はお立ち寄りください。
ライトが好んで使った大谷石の記事があります。ご興味のある方はお立ち寄りください。