江戸、明治、大正から関東大震災までの期間の商家建築(店舗兼住宅)の形態に「出桁(だしげた)造り」があります。屋根を支える垂木を外に伸ばすために、柱位置にある軒桁から腕木をのばして出桁を乗せて、これで垂木を支える構造形式です。これにより庇(ひさし)の深い立派な造形となり、商家の格を表すものとして好まれました。「出桁造り」が採用されている歴史建築の「居酒屋、鍵屋」をご紹介いたしましょう。
復元保存された鍵屋
鍵屋は、1856年(安政3年)に現在の東京都台東区下谷の言問通り沿いに、酒問屋として建てられました。関東大震災や太平洋戦争の戦禍にも耐え、1949年(昭和24年)には居酒屋へ業態変更して営業を継続していましたが、道路整備の再開発のため移転することとなりました。1975年(昭和50年)店舗は移転して居酒屋を継続し、建物は保存建築物として東京都小金井市の「江戸東京たてもの園」に移築されました。
出桁(だしげた)造り
1階の庇(ひさし)には瓦が乗って重厚感がありますが、これを垂木だけで支えることはできません。垂木を出桁で支え、軒桁から伸ばした腕木で出桁を支えます。これを「出桁造り」といいます。鍵屋の場合はそのすぐ下に板庇があることから、雨を防ぐための機能よりも、意匠的な要素が強いと考えられます。
出桁と木造建築の構造
日本の木造建築は架構式構造と呼ばれ、木材等の細長い軸状の材料で骨格を組み立てます。通常は建物外周部の桁で垂木を受けますが、そこから腕木を外に出して別の桁を構築するので出桁と呼ばれます。
復元建物内部
「江戸東京たてもの園」の復元建物では、内部の居酒屋の状態も再現しています。時代考証的には1970年(昭和45年)頃を想定した復元です。天井は、2階の根太と床板が露出していますが、狭い空間を広く見せる工夫のひとつです。
建物平面図
1階右手の入れ込みの土間は、普通のお客さん達が軽く一杯やっていたのでしょう。左手には店座敷があって、ここは少々上等なお客さん専用の場所だったのでしょう。2階は基本的に住居と作業場ですが、ときには鬼平犯科帳などに登場する同心や密偵などが、場所を借りて盗賊などを張り込んでいたのかもしれません。
現在の居酒屋「鍵屋」
移転建物は大正元年、内装は移転前の店舗を踏襲
1974年(昭和49年)に移転を余儀なくされた鍵屋さんは、元の店舗からほど近い、現在の根岸3丁目に店を構えました。建物は1911年(大正元年)に建てられたもので、元々は日本舞踊のお師匠さんが住んでいたお宅です。日本舞踊の舞台が小上がりの座敷になっていて、移転前の店舗の土間と店座敷の位置関係とよく似ています。現在の店舗内部と復元建物の内部はそっくりです。現在の店舗は移転前の居酒屋の雰囲気を踏襲していて、これをもとに復元建物を時代考証を加えて再現していますので、当然といえば当然ですよね。
女将さんと居酒屋メニュー
メニューは、、うなぎくりから焼き、とり皮焼、煮奴、味噌おでんなどを、先代から引継いで提供しています。酒は菊正宗、櫻正宗、大関の3種類で、先代が秋(菊)、春(櫻)、人気の相撲(大関)にあやかって決めました。女将さんに「お酒!」と頼みますと、何も聞かずに湯煎して燗酒にしてくれました。酒は燗なんですね、なんだか心も温まります。お酒を3本とお料理3品で4,950円でした。
まとめ
出桁造りは江戸、明治、大正までは商家の格を表す様式として好まれましたが、1923年(大正12年)の関東大震災以降は、耐火性材料への移行や、庇を引っ込めて道路幅を広げるニーズにより、徐々に姿を消していきました。
代わりに台頭してきたのが「看板建築」と呼ばれる形態です。建物正面を銅板やモルタル、タイル、スレートなどの耐火材料で覆い、建物ファサードがあたかも「看板」のように装飾が施された建物です。
東京小金井の「江戸東京たてもの園」には、江戸、明治、大正、昭和初期の建物が復元保存されており、「出桁造り」や「看板建築」、その他「歴史建築」を数多く見ることができます。ご興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょう。
看板建築に関する記事があります。ご興味のある方はお立ち寄りください。
「江戸東京たてもの園」にある前川国男邸の記事があります。ご興味のある方はお立ち寄りください。