村野藤吾は1891年(明治25年)に生まれ、1984年(昭和59年)に93歳で亡くなるまで300を超える作品を世に送り出しています。新しい時代の潮流であったモダニズムとは一定の距離を置き、人の感性や柔らかなもの、伝統的なものを大事にした自由な造形活動を行いました。また、戦後の数寄屋建築の名手とも言われ優れた和風建築を残しています。1967年(昭和42年)文化勲章を受章しています。
見出しの年号は建物竣工年、歳はその時の村野藤吾の年齢です。
日本生命日比谷ビル、日生劇場(1963年、72歳)
日本生命日比谷ビルは事務所と劇場のふたつの機能を合わせ持つため、その調和を図るために1階部分をピロティとして開放する設計としています。採算的には得策ではないこの方法を承認した当時の日本生命社長の弘世氏の「建築に対する深い理解と愛情」に村野藤吾は深甚なる感謝の言葉を述べています。
外壁は建物の永続性を象徴するものとして花崗岩を採用し、ガラスの使用は最小とするとともに壁面から後退させバルコニーを設けることで、重厚な印象の外壁としています。
日生劇場の内部は壁も天井もすべて曲面で構成され、壁面はガラスタイルのモザイク貼りで天井は硬質石膏を着色しアコヤ貝を2万枚も貼るという特殊な仕様で、他に例のない幻想的な空間となっています。
迎賓館赤坂離宮改修(1974年、83歳)
元来この建物は片山東熊の設計により、1899年(明治32年)から1909年(明治42年)にかけて皇太子のお住まいである東宮御所として建設されました。第二次世界大戦終結後、外国からの賓客を迎えることが多くなったため迎賓館として大規模な改修工事を行うこととなり、村野藤吾が設計を担当し1968年(昭和43年)に工事着手し6年の年月をかけ1974年(昭和49年)竣工しています。2009年(平成21年)国宝に指定されています。これまで多くの国王、大統領、首相などをお迎えしたほか、主要国首脳会議などの国際会議の場としても使用されています。
正面玄関から中央階段を上がると「朝日の間」があります。賓客の応接室として使われ表敬訪問や首脳会談等も行われる迎賓館で最も格式の高い部屋となっています。
グランドプリンスホテル高輪、貴賓館改修(1972年、81歳)
1911年(明治44年)片山東熊の設計で御用邸として計画されましたが、工事中に竹田宮邸として下賜されました。マンサード屋根とドーマー窓が印象的な外観です。村野藤吾により改修工事が施され、現在は結婚式などで利用されています。
グランドプリンスホテル新高輪(1982年、91歳)
グランドプリンスホテル新高輪は村野藤吾の晩年の傑作といわれ1982年に完成しました。ときに村野藤吾91歳の時の作品です。ロビー・レストラン棟とその地下にある大宴会場「飛天」、そして客室棟から構成されています。客室棟はホテルとしての採算が合わない場合には賃貸アパートとして転用することを前提に、容易に2室を1室に改造できるように計画されています。1990年にはいくつもの大小宴会場を持つ国際館パミールが隣接して建設され本館とは連絡通路でつながっています。
客室棟
客室棟は可愛らしいバルコニーが印象的な外装デザインです。賃貸アパートに転用する可能性もあったことからバルコニーは必須だったのでしょうが、うまくデザインされ堅固な建物が五感に優しい、柔らかなものに変わっています。
大宴会場「飛天」
専用のエントランスホール「うずしお」から緩やかなスロープを降りて、国内最大級の広さを誇る大宴会場「飛天」に至ります。天井のデザインは日生劇場のそれを彷彿とさせます。
小山敬三画伯、大壁画「紅浅間」
1975年に文化勲章を受章した小山敬三画伯の大壁画「紅浅間」がロビーに掲示されています。代表作とともに寄贈された小諸市立小山敬三美術館(1975年)は村野藤吾の設計によるものです。
メインバー「あさま」
ロビーの大壁画「紅浅間」の裏手にメインバー「あさま」があります。天井は高く開放感はありますがソファは低く優雅で落ち着いた雰囲気です。バーの内装デザインはもとより、ソファなどの調度品も村野藤吾が手掛けました。
グランドプリンスホテル新高輪「メインバーあさま」HP リンク
1982年のホテル開業の際に、ロビーの大壁画「紅浅間」をイメージしたオリジナルカクテル「紅あさま」が創られました。「エスプレッソマティーニ」などカクテルも豊富です。「ボロネーゼ」は隠れた人気メニューだそうで、軽い食事をとることもできます。
グランドプリンスホテル新高輪「メインバーあさま」について HP リンク
じゃらん グランドプリンスホテル新高輪 リンク京都都ホテル、和風別館佳水園(1959年、68歳)
現在はウエスティン都ホテルとなっていますが、ホテルと和風別館「佳水園」の両方を村野藤吾が設計しています。特に「佳水園」は戦後の数寄屋建築の最高傑作とも言われており、幾重もの庇に奥行きを感じるとともに美しく、リズミカルな外観が印象的です。
まとめ
1941年(昭和16年)村野藤吾が50歳の時に第二次世界大戦が勃発しました。以降10年間は建築家として腕を振るうことができずにいましたが、60代以降の活躍には目を見張るものがあり名作のほとんどは60歳以降に造られました。90歳を超えても創作への情熱は衰えることがなく、死の前日も自宅で打合せを行い、翌日亡くなった際の胸ポケットには「東京行きの飛行機の切符」が入っていたとのことです。