琵琶湖の東岸、近江八幡市周辺にはヴォーリズ建築が数多く残されています。キリスト教の伝道のために来日し、多くの建築を手懸けた建築家であるとともに、社会事業家、実業家としての顔も持ちます。ヴォーリズは、伊庭貞剛の求めに応じて四男伊庭慎吉の自宅も設計します。伊庭貞剛は住友財閥2代目総理事を務め、別子銅山中興の祖ともいわれる人物です。ヴォーリズが来日した時には59才で、すでに一線を退き、琵琶湖南端の大津市石山の「活機園」で隠棲していました。
ヴォーリズとは
1880年にアメリカで生まれ、1905年(明治38年)に25才で英語教師として来日しました。伝道のほか、建築事務所を興し1600もの建物に携わったほか、事業会社近江兄弟社を設立しメンソレータムを広く日本に普及させ、病院や学校の開設などの社会事業も行ないました。
隠れた一面として、戦後昭和天皇を守った人物とも言われています。1983年(昭和58年)10月31日の東京新聞によると「終戦直後に、ヴォーリズがマッカーサー元帥を訪ね、天皇処遇問題で近衛文麿元首相と会談するように仲介工作の労をとった。」と記述されています。その後、1945年(昭和20年)9月27日には昭和天皇とマッカーサーの会見が実現し、天皇が戦犯裁判を免れ日本復興の要としてマッカーサーに認知されたことは歴史が示すとおりです。
1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗りました。ウィリアム・メレル・ヴォーリズのメレルを「米来留」とし、「米国より来りて留まる」という決意を表わしています。
写真横のサイン記号は、逆三角形を三つに仕切って、G=God(神) N=Neighbor(隣人) S=Self(自分)の序列を現し、「丸にチョン」は、近江八幡が世界の中心であるという意味を現しています。
ヴォーリズ建築マップ
近江八幡駅から琵琶湖に向かってバスで5分程度の一帯に、ヴォーリズ建築が多数残されています。
八幡堀には遊覧船も浮かびのどかな風景です。
主な建築
自邸(ヴォーリズ記念館)
ヴォーリズ記念館は、ヴォーリズ学園の幼稚園の教師寄宿舎として計画されましたが、1931年(昭和6年)の竣工時からヴォーリズの自邸として使用されました。現在はヴォーリズの記念館として公開されています。
下見板張りや両開きの窓、暖炉の煙突など洋風な雰囲気を醸し出していますが、内部には和室も造られた和洋折衷の建物となっています。
写真左は夫妻の居間・寝室としての和室です。玄関にある傘立てには、ヴォーリズと「丸にチョン」のサインがありました。
ハイド記念館、教育会館
写真の右棟がハイド記念館で、ヴォーリズ学園の幼稚園として使われていた建物です。写真の左棟が教育会館で、学園の礼拝堂として使われていた建物です。その後講堂として利用されていました。いずれも、1931年(昭和6年)にメンソレータム社の創設者 アルバート・アレキサンダー・ハイド氏の寄付によって建てられたものです。
近江八幡郵便局
1921年(大正10年)にヴォーリズの設計によって洋風の局舎が竣工し、1960年(昭和35年)まで八幡郵便局の局舎として使用されました。現在はイベントスペースとして活用されています。
スパニッシュと和風の町屋造りを折衷したデザインは、個性がありながら町並みに溶け込んでおり、旧市街中心部のランドマーク的役割を果たしています。
旧伊庭家住宅
旧住友財閥の二代目総理事伊庭貞剛の四男伊庭慎吉の邸宅として建設された和洋式木造住宅です。ヴォーリズの設計により、1913年(大正2年)に竣工しました。時に、伊庭貞剛67才、ヴォーリズ33才です。伊庭慎吉は実業家ではなく、画家であり、安土村の村長であり、神社の神職でもありました。
外観の特徴となっているハーフティンバーや煙突など洋風色が目立ちますが、外部内部ともに1階が和風を基調とし、2階が洋風を基調とした和洋折衷の造りとなっています。外観はのちに紹介する伊庭貞剛が終の棲家とした「活機園」のそれと酷似しています。
現在の和風の玄関は、のちに増築されたものです。2階のアトリエの入口の板戸は、一枚板の大きなものでした。このように所々に贅沢な仕様が見られます。
リビングの天井は、意匠を施した梁を現しにした洋風でまとめられています。暖炉のデザインもモダンで凝ったものとなっています。
2階のアトリエは天井が高く、広く明るい空間としています。創作の邪魔にならないよう、シンプルな内装としているのでしょう。
伊庭貞剛
伊庭貞剛は住友財閥2代目総理事を務め、別子銅山中興の祖ともいわれる人物です。製錬所の煙害による農民暴動、社内の紛争、鉱夫の騒動など別子の状況は惨憺たる状態でした。50才を前に別子銅山支配人として赴任した伊庭は、別子の内憂外患の原因が「意思の疎通を欠いた人心の荒廃にある」と看破します。このとき伊庭は、ただ銅山へ登ったり降りたりして、親しく鉱夫に声をかけるのみでしたが、伊庭の春風たる人柄に、徐々に別子は落ち着きを取り戻します。
5年後、別子銅山を「我が国銅山の模範」と評されるまでに再建し、住友総理事となり別子を離れます。伊庭が総理事の時代に住友銀行など現在の主要な住友各社を誕生させますが、わずか在任6年で「事業の発展を害するものは、老人の跋扈である」として、58才の若さで引退し大津市石山の「活機園」に隠棲します。
活機園
「活機園」は、客人を遇する洋館、生活の場としての和館、庭園からなり、1904年(明治37年)に竣工しました。洋館の設計は、住友営繕の技師長の野口孫市によります。ヨーロッパ外遊で学んだ新しい造形をふんだんに取り入れつつも、日本建築との融合が試みられています。和館を手がけた棟梁の二代目八木甚兵衛は、数寄屋造りの名手として知られています。住友に関連する近代和風建築をいくつも手がけていますが、そのなかでも活機園はもっともシンプルな意匠となっています。
ヴォーリズと伊庭貞剛
ヴォーリズが来日し近江八幡に居を構えたのは、1905年(明治38年)です。伊庭貞剛が後進に道を譲り、大津市石山の「活機園」に隠棲したのは、その前年の1904年(明治37年)です。
「活機園」の洋館は、住友営繕の技師長の野口孫市の設計ですが、老齢に向かう伊庭貞剛のために階段の蹴上(一段の高さ)を低く、踏面(一段の奥行)を広くするなど、人にやさしい設計としています。また、ヴォーリズの設計の特徴としても、すべての建築において階段は同じくゆるやかな仕様となっていますし、随所に人と人をつなぐ機能、その空間に住まう人への愛に溢れています。
活機園洋館(1904年)と、旧伊庭家住宅(1913年、四男伊庭慎吉の邸宅)の外観は、ともに木造二階建で、柱や梁の木材軸組構造を外部に露出させるハーフティンバー様式となっています。明らかにヴォーリズは「活機園」を意識して、旧伊庭家住宅を設計したのでしょう。
琵琶湖湖畔の近江の地で、伊庭貞剛とヴォーリズが出合い、建築にも造詣が深かった伊庭貞剛とヴォーリズが建築談義を楽しみ、伊庭貞剛の影響を受けてヴォーリズの設計思想が確立していったのだ、と空想すると愉快でなりません。