名古屋・覚王山の丘の上に、松坂屋を創業した伊藤祐民が自らの理想を形にした「揚輝荘(ようきそう)」と呼ばれる別荘があります。表通りから一歩入ると都会の喧騒がすっと消え、静かなる繁栄の世界が広がります。
伊藤祐民とは
伊藤祐民は、代々京都で呉服商を営む家柄の出身ですが、明治維新の激変で生活様式も経済の仕組みも大きく変化したことから、「呉服屋はこのままでは立ちゆかぬ」と悟ります。西洋の「デパートメントストア」という新しい業態に着目し、単なる物売りではなく文化や時間の過ごし方を提案する舞台として、日本初の近代百貨店「松坂屋」を創業します。
伊藤祐民は、大正時代に渋沢栄一が率いた「実業家渡米団」に参加し、ニューヨーク、シカゴ、ボストンなどを視察し、市場経済の原点や商業建築の合理性、さらには企業の社会的責任にまで思いが至ります。帰国後はその知識を日本流に昇華し、商業と文化を結ぶ経営哲学を確立します。百貨店の屋上庭園や、顧客をもてなすティールームも、すべては買い物を通じて人が豊かになるための「舞台装置」だとしました。

揚輝荘
揚輝荘は、そうした伊藤祐民の理念を凝縮した私的空間です。1939年(昭和14年)頃には約1万坪の敷地に、「聴松閣」を中心に洋館と和館、茶室など30棟を超す建物群が、池泉回遊式庭園とゆるやかに調和していました。現在は敷地が2/3程度に縮小されるとともに、南園と北園に分断されているので連絡通路で行き来します。


聴松閣
聴松閣は、ハーフティンバーの外観など山荘風の外観をした迎賓館で、1937年(昭和12年)に完成しました。内装は各国様式がミックスされており、床や壁、建具などには様々な意匠が施され、伊藤祐民のこだわりが随所に見られます。

食堂の暖炉にはめ込まれた古代瓦、手斧を用いた名栗模様、書斎の高さを抑えた船底天井と網代張り、「いとう呉服店」の商標デザインを模した透かし彫りなどは、いずれも伊藤祐民自身の感性によるものだと思われます。彼は建築家任せにせず、自ら素材を選び、職人と議論し、納得するまで修正を重ねたと言います。伊藤家の蔵書には、ウィリアム・モリスやフランク・ロイド・ライトの図版が含まれていたそうです。眼が行き届いた空間、遊び心を感じる意匠といった趣です。


書斎の床は当時の新建材プラスチックタイルで市松模様に貼られています。玄関扉はケヤキの無垢一枚板ですが、取っ手は内側にしかありません。迎賓館ですので来客時には執事が内側から開けますで、外側には取っ手が必要ないからだそうです。


揚輝荘には、地下道がありました。現在の南園と北園を結び、かつ途中から東方面に延びるT字型、全長は170mに及びます。トンネルの目的は不明ですが、アジャンター石窟寺院を模したものだという説もあります。(上掲、「昭和14年当時の全体図」に赤点線で示されています。)

白雲橋は、京都・修学院離宮の千歳橋を模したと言われる廊橋で、北園のシンボルです。現在でも橋上を舞台にイベントが行われることがあります。

三賞亭は、北園の池に面して建つ茶室で、1918年(大正7年)に伊藤家本家から移築された、揚輝荘に建てられた最初の建物です。

国際交流
仏教に信仰が篤かった伊藤祐民は、1934年(昭和9年)にタイ、ミャンマー、インドの仏跡を巡拝する4か月の長旅に出ました。その時に受けた感銘が聴松閣の意匠の随所に表現されています。

伊藤祐民はアジアとの連帯を重んじ、留学生や外交官をよくこの別荘に招いたと言います。各界の要人や文化人が往来する迎賓館、社交場として華やぎました。またアジアの留学生が寄宿して、国際的なコミュニティを形成した場所でもあります。
地下室はホールと舞台で構成されますが、インド様式の意匠が随所に見られ、国際交流の中心として活用されていたことが推測されます。


まとめ
聴松閣をはじめとして揚輝荘の随所に、伊藤祐民のこだわりと遊び心を見ることが出来ます。ビジネスと文化、仏教と国際交流、建築と日本、さまざまな要素を有機的に結びつけて、時代の理想を背負った熱量を感じます。時代が変わっても、人の志は建物の中に宿り続けているようです。